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れーでるく・ブログ

思いついたことなど不定期に。

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存在しない感覚の話

小説を読んでいると、時折「存在しない感覚」を追体験させられることがあります。例えば、こんな一節があったとします。
 「それは闇であった。見た目のことではない。目に映るそれはどこまでも白く光り輝いていた。しかしそれは、限りなく深い闇にほかならなかった。」
 こういった表現は文芸においては珍しいものではありません。しかし、白く輝く何かを、「闇」として認識することが、本当にあるでしょうか。人間の感覚は、五つの感覚、即ち五感に分類されます。「光り輝く」は視覚による認知で、「闇」もまた視覚による認知ですので、相反するそれらが共存することは想像しがたい。しかし、多くの読者はそれを理解することが出来ます。なぜなのでしょうか。
 一つに、小説は、読者の経験に依存した媒体であるということがあります。実際には文字列が並んでいるだけなのに、読者は作中の景色を見ることが出来ます。部分的にであれ、似た景色を、経験的に知っているからです。或いは、生まれてこのかた平和で実際的な世界から出たことのない読者が、目の前で奇怪な容貌をした怪獣に親友を食い殺された登場人物の絶望を感じ取ることが出来ます。自分が経験として味わったことのある「絶望」の感覚を想起し、それに主人公の置かれている状況の描写を重ね合わせればよいのです。同様に、「光り輝く」「闇」を思い浮かべることが出来るのです。自分が闇を見た時の感情変化を思い出し、光り輝く対象物を見た語り手に重ね合わせるのです。これは、小説が得意とするやり方です。
 もう一つ、異なるアプローチを考えてみましょう。「白く輝く」「闇」を現実世界で体験する方法があります。例えば、どんよりとした表情の痩せ衰えた人物の肖像画が煌々とバックライトで照らされていた所で、それを見て明るい気持ちになる人は少ないでしょう。「闇」とさえ感じるかもしれません。これは記号としての「闇」と物理的な「光」を組み合わせたものです。この手法は、様々な芸術に拡張可能です。ファンシーな色遣いで無機質な病棟を描いた絵画や、切なげなメロディーで喜びを唄った曲。それらはただミスマッチなだけでなく、「存在しない感覚」を再現する効果があるのかもしれません。
 そこまでわざとらしくせずとも、「なんとなく悲しくなる楽しげなイラスト」なんてものも作れます。実は先ほど五感の話をしましたが、第六感というものは科学的にも実証できるかもしれないそうです。自分でも認識していないような過去の記憶が、勘の正体なんだとか。暗黙的学習(implicit learning)などと呼ばれています。これに語りかけることで、「なんだか不穏」「なんだかリラックスできる」のように感じさせることが出来るかもしれないと私は考えます。どうしても、受け手の経験に依存してしまうのは仕方がないことですけれどもね。
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雄弁さの話

いとまです。個人サイトRaidelkで物語音楽の真似事のようなものを制作しています。
近頃、それぞれの媒体の「雄弁さ」について考えることがあります。
ここにおける「媒体」とは、音楽や映像など、表現を伝達するために用いられる手法のこととします。

まず、この話の前提として、各種媒体はそれぞれに特有の表現の可能性、或いは力を持っており、上手に引き出してやることができれば、極めて効果的に受け手に感動を与え得るという認識があります。
世の中には先に挙げた音楽や映像に加え、絵画、漫画、テレビゲーム、演劇、音声劇など数えきれない種類の媒体が存在しています。

当然、それぞれに得意不得意があります。
小説は、例えば登場人物の心情描写を実に得意としていますが、形状の説明のような視覚的表現の伝達を多少不得意とします。
テレビゲームは、例えば登場人物との共感を生み出す最も優秀な手段の一つですが、複雑にして多角的な表現には向きません。
……これらはごく一部に過ぎず、これらの媒体は実際にははるかに多くの得意、不得意、或いは難点を持っているはずです。

いくつか媒体の例を挙げて話を進めてきましたが、更に細分化された分類もあるはずです。
音楽と一括りにしても、インストゥルメンタル曲とボーカル曲では伝えられる内容が違うでしょう。
更には同じボーカル曲でも、音楽ジャンルやコンセプトなどによって表現のスペクトルが随分と変わると思います。

これをジャンルによる制約とみなすか、或いは自由度とみなすかは人によって異なると思いますが、私には良いとされる作品はどれも、雄弁であると感じられるのです。
良い作品というものは、使用されている媒体の得意な部分を最大限に活かしています。
それは伝えたい感情や考えを受け手によく伝達するだけでなく、ひょっとしたらブーストしさえするものなのだろうと私は考えます。

私の憧れる物語音楽も、同様です。
物語音楽というジャンルに属するであろう音楽作品を聴いていて、「ああ、これは極めて雄弁だ」と感嘆することが数えきれないほどあります。
たいてい、それは旋律から脳内に直接作中の情景が描き出された時だったり、妙妙たる歌詞の言葉選びから登場人物の心情を直に感じられた時だったりします。
音声劇ともまた違った、歌という、ともすれば説教臭くもなる表現に、それらの登場人物と世界は乗りこなしているといってもいいかもしれません。

私は、音楽だけでなく、文章や絵を加えて利用する、ある種卑怯とも言えるであろう表現方法を採択したにも関わらず、一切雄弁になれていないと常々実感しています。
曲を上げてから、表現したかった内容を込められなかったな、とか、そもそも情報量が少なすぎてわかってもらえるか不安だ、などということが多々あります。

作者が不安であるとき、作品も不安げな貌を見せます。
不必要な所まで説明してしまったり、過去にも描いた内容を意味もなく繰り返し描いてしまったりするなど、作者が安心するためだけに行われる表現が作品の品質を損ないます。
得意でない部分に限られた文字数や時間を費やし、本当に伝えたかった作者自身の感動や、怒りや、悲しみや、喜び、或いは思想や、純粋な好きという感情、これらは受け手に伝わりません。

この媒体の、得意な部分は、何だろう。苦手な部分は、何だろう。良くできた作品は、なぜ良くできているのだろう。
考察してみるだけでも、意義があるのではないかと考えました。得意な部分を活かすにはどうしたらいいかが分かれば、より作品を魅力的にできるかもしれませんし、何より、作品に対する自信が生まれる可能性があるのではないかと思いました。(そもそも、自信がないなら創作などするなという話かもしれませんが)

今更といった内容になってしまいました。
物語音楽という媒体を選んだことが誤りだったとは、少しも思いません。
しかし、今のところ、私は雄弁な作品を作ることが、作品を雄弁にすることができていません。
ゆえに、自戒を込めて、ここに考えをまとめることとします。

人を探しています

ご無沙汰しております、いとまです。

本日、やっとのことで波濤の三曲目「人を探しています」を上げることができました。
プロジェクト開始前は、月一くらいで曲を上げようと思っていたのですが、現状追い付いていません。

この曲も5月頃に作編曲自体は終わっていたのですが、リアルが多忙になる、RejetやhoneybeeのATMと化す、Ra*bitsの第二弾ユニットソングCDを聴いて尊さで意識が他界するなど、様々な困難と立ち向かっていたら12月になってしまいました。
次の曲も完成しているので、今年度中に上げられればと考えています。