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れーでるく・ブログ

思いついたことなど不定期に。

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創作とは斯くも難きものか

作品というのは、辻褄が合うように構成するだけでも私のようなへっぽこ創作者には至難である。
いや、成功している商業作品でもご都合主義や説明不足が蔓延している辺り、そこが最優先事項ではないということなのだろうか。
ひとまずそれは置いておこう。
良い作品というのは、たいてい辻褄が合った上で、読者の感情や視線を思い通りに誘導する。
絵ならば視線誘導、音楽なら期待感、小説なら予想の誘導、映像なら……キリがない。無論そこから逸脱し、裏切ることも含めてワンセットだ。
創作をされている読者の方は「当然のことを何を今更」と思っているところだろうが、ご容赦願いたい。

単に音楽といった時に、これはさしたる難題と感じられない。
音楽の上で「辻褄」とは何であろう。ドミナント・コードからサブドミナント・コードに進行しないことか。ツー・ファイブをファイブ・ツーにしないことか。それを回避するのは容易である上、そういった表現を意図して使うことはたいてい作品の完成度を損なわない。
歌詞の矛盾もなんだかんだ許容されてしまうし、展開もそれはもう滅茶苦茶で結構、という話だ。

さて、これが物語音楽となると話は大きく変わる。
「読者に考察させる」という誘導がある。これは意図的に全ての情報を明かさず、読者がそれを勝手に想像することで作品世界に膨らみを持たせるというものだ。「考察したいからする」ではなく、「考察させる」のだ。難しいことだが、確かにこれを成し遂げている作品は少なくない。
それほどまでに難しい理由は、捨象すべき情報の取捨選択にある。本来、小説を書く時などは「読者は作者と違って作品の内容を知らない。説明不足になりすぎないように」ということを意識させられる。つまり、それらしく話を書いただけでは、全貌を知らない読者は物語を理解することすら困難であるというわけだ。さて、「読者に考察させる」誘導を利用する場合、読者が物語に入り込むのに支障がないように情報を削らなくてはならない。これが恐ろしいまでに難しい。本筋に触れなければ良いというわけではない。それではただの「文章ダイエット」であり、削られた部分を考察しようという気すら起こさせない。ただし本筋を下手に削ってしまうと、物語そのものが読者を置いてきぼりにしてしまうのだ。

さて、ならばそんな難しい技法は使わないのが吉だ、と考える方も多いだろう。残念なことに、そうもいかない場合がある。われらが愛すべき物語音楽である。
音楽というものは、短い。15分や20分の「極めて長い」曲は、決して他の芸術と比べて時間を取らせるものではない。現時点で私の作品として上がっている最長の曲「無塵の航路」は7分46秒をかけ、たった1,230字の歌詞を伝えるものである。この調子では、20分の曲で伝えられる文字数は3,167字程度という計算になる。参考までに、日本の著名な短編作品の文字数を幾つか載せておく。数え間違いを避けるため、十の位を四捨五入してある。

蜘蛛の糸(芥川龍之介) 2800字
高瀬舟(森鴎外) 8300字
やまなし(宮沢賢治) 2700字

忘れてはならないのが、これらは短編の名手と呼ばれる文豪たちによって書かれたものであり、これ以上なく「必要な言葉」だけで紡がれた文章であるということだ。無論、詩とは比べるべくもなく多いが、物語を物語たらしめるだけの文字数である。
さて、実際は20分の曲を作るのは現実的ではない。長い曲を書くアーティストもあるが、普通は常日頃からそんなことはしていられない。作るとしても、渾身の一曲としてである。
即ち、1000字程度に収めることを想定することになる。(※ヒップホップ楽曲では二倍近くの密度でリリックが紡がれるが、曲が長くなることはあまり想定されていないので合計の文字数はさして変わらないものと考えて良い)そうであるからには、物語の全てを描き切るのは不可能である。「蜘蛛の糸」などよりも簡潔に描くしかない。それゆえ、捨象した部分を読者に考察させる必要が出てくるのだ。この点、俳句や詩と近い性質を持っているのだ。

とはいえ、実際のところ、物語音楽はもっと雄弁である。例えば文章であれば「その時、何かが水に落ちる音がした。」と書くべきところを「ポチャン」という効果音一つで表現できる。「その時、背筋が凍った。」の代わりに、ウォーターフォンか何かの不気味な音色を鳴らせば良い。むしろリスナーの背筋を凍らせることで、文章で表現することも出来るかもしれない。器用に使えば、物語音楽というのは決して束縛感ばかりの芸術というわけではないのだ。

「波濤」に関する限り、私はこの挑戦に失敗した。難解な多義語を使い、リスナーに「ググらせる」のは正しいやり口ではないだろう。某「物語音楽の旗手」・「殺人ソング界の貴公子
」も、架空世界を舞台とするよりも現実世界をモチーフにした方が楽であると言っていたが、その意味が今では痛いほど分かる。だが、だからこそ、私はこの題材を選んだのだ。今後も試行錯誤を続けていこうと思う。実のところ、この点に関する反省はもう済ませてある。きっと、次こそはなんとか出来るつもりだ。応援して頂けると、嬉しいものである。

締まらない終わり方になってしまったので、参考までに、本記事の文字数を最後に記したいと思う。では、またいつか。(1971字)
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無塵の航路・汀の鳥は

ブログを暫く更新していない間に二曲上がっていました。
旅行に行ったり、コンサートに行ったり、創作者向けの遊べるTwitterアプリを作ったり、次作の構想を練ったりと、色々なことをしていました。
「無塵の航路」および「汀の鳥は」、聴いていただけましたでしょうか。
(聴いていないという方はこちら)
「無塵の航路」は本作「波濤」のクライマックスシーンとなる組曲形式のシンフォニックな楽曲、
「汀の鳥は」はエンディング(扉曲)となっております。

設定の関係上、オープニング及びエンディングの位置付けとなる楽曲を「扉曲」と呼んでおり、本作では「翼下の空隙」および「汀の鳥は」がそれに当たるのですが、じゃあオープニングやエンディングの方だけについての呼称があるのかと聞かれると固まってしまいます。入口曲・出口曲……?うーん……。
実はアニメを意識して扉曲は90秒で一区切りつくような構造になっております。暇があったらアニメPV風のものも作ってみたいのですが、私は絵を数十枚描くよりは新曲を作る方が性に合っているようです。

ひとまず、これで「波濤」は完結となります。
「波濤」は「薄明近きクレードル」の第一部に過ぎないので、続編(?)はまだまだ出していきます。
むしろ「波濤」が全体から見たプロローグのような位置づけだったり。

最後にお知らせを少しさせて頂きます。コミックマーケット93にRaidelkとして申し込みました。本作品のリマスター版を「クレイドル・ノート」の名前で頒布する予定ですが、サークル参加が初めてなもので、どうなることやら……。当選した際には、よろしくお願いいたします。

雨の日の気まぐれ

お久しぶりです。いとまです。

多大な影響を受けているRevo氏の新しいアルバム「進撃の軌跡」を聴いた後、知人に「しばらくは曲作れないかもしれない……」などと送った後、作曲の捗らない日々を送っています。決して曲が思いつかないわけではないです(本当に)

とはいえ、既に完成している分の曲はあるわけでして、今回はそちらを公開させて頂きました。薄明近きクレイドル第一部「波濤」の七曲目「雨の日の気まぐれ(inst.)」です。
実はこちらは六曲目「トーヒコー紀コー」よりも先に書いた曲で、多少繋がっていたり、いなかったりします。

通しで聴いた時に、クライマックスに向けて一旦落ち着くための曲という扱いなので、もしかすると単体で聴いた時に物足りなさを感じるかもしれません。
次が恐らくは本編の最後の曲となります。まだ途中ですが、自信作ですので、ぜひご期待下さい。